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【第31回】傘のなか、広がる珈琲

誰かの珈琲の匂いは、思い出を蘇らせる。

 

先日、カフェで雨宿りをしていたときだった。頼んだアールグレイティーを手にして、サツキとあじさいが同時に咲いている雨の世界を見つめていると、あたたかな珈琲の匂いがふわっとわたしの後ろを通り抜けた。

 

珈琲の匂いは、雨で湿気た店内にとどまって、なかなかわたしの周りを去ろうとしない。ほんのり残る珈琲の匂いを吸い込んでいると、記憶のどこかがむずむずと起き上がる気配がした。

 

なんだっけ、なにを思い出そうとしているのだっけ。

 

窓の外には静かな青のあじさいがたっぷり咲いていて、垣根のように視界の一部を遮っている。なにを思い出そうとしているのか。わからないから、あじさいのことを考えるように努めた。

 

雨の日こそ、いきいきと映えるあじさい。

 

あの佇まいを見ていると、世界を差し置いて鮮やかに映る女になりたいといつも思う。

 

……と思考を巡らせていると、あじさいの垣根の向こう側から、深い紺色の傘がぬっと現れた。傘の下には、男の人と女の人。きっと恋人同士なのだろう。

 

ぴったりとくっついて、少し笑っている。傘をさしている彼の肩は濡れているけれど、きっと彼女はそれには気づいていないだろう。

 

相合傘。好きな人と一緒にいるとき、傘ひとつ分離れてしまうのが寂しくて、いつでも彼の傘に入る。あのとき、傘のなかには2人の匂いが広がって、なんともいえない甘美な気持ちになるのよね。……あ、匂い。匂い、か。

 

彼らがわたしの視界からしっかり去って、そしてわたしはようやく先ほどの記憶がなんだったかを、はっきりと理解した。

 

 

***

 

 

あれは大学3年生の頃だ。

 

やたらと空が白くて明るい日だったような気がする。

 

講義が終わり、退屈して、誰か遊べる友人が捕まらないものかと購買や学食をウロウロとしながらメールをしていた。運が悪いことに誰も捕まらず、ふてくされた気持ちで帰ろうとしたころ、雨が降り始めたのだ。しかも、強く。

 

もちろん、傘は持っていなかった。

 

いや、本当は朝から降ることを知っていたのだけれど、降らない可能性にかけて持たずに出かけたのだ。失敗したな。そう思いながらも、傘を買おうか迷っていた。なんせわたしは大学生でお金がなかった。たった500円でも痛い出費だ。

 

悩んで、悩んで、悩んだ結果、買った。普段だったら「ええい、濡れて帰ってしまえ」と思うのだけれど、あまりにも雨が強くなってきて、大学から渋谷駅に戻るまでにさすがにびしょ濡れになってしまうな、と思ったから。

 

買ったばかりの靴は、門を出てすぐに濡れた。

 

誰かの傘がぶつかって、肩も濡れた。

 

憂鬱な気持ちで、足元の水溜りをヤケになってびしゃびしゃと踏みつけながら、坂を下り、渋谷駅の方へ流れていく。

 

そして、あと少しで駅だというところで。

 

道沿いにある店の狭い軒下で小さく丸まって雨をやりすごしている男の人が目に入ったのだ。

 

白い服に、チノパン。肩から小さな斜めのカバンを提げていた。

 

顔は、下を向いていたのでわからなかった。酔っ払っている人が具合悪そうにするときみたいに、あるいは落ち込んだ人がうなだれているときみたいに、びっくりするくらい小さく縮こまっていた。

 

それでも、彼の足元ギリギリに雨が跳ねていた。そのくらい狭い狭い軒下だったのだ。ああ、そうだ、あれは、大手カフェチェーンの軒下だった。

 

 

「入っていきませんか?」

 

わたしは気づいたら声をかけていた。

 

あまり悩んだり、迷ったりしなかったように思う。

 

その頃、わたしは不思議なほどに知らない人から傘に入れてもらう経験が多く、時には傘をもらったこともあって、いつかわたしも濡れている人を見かけたら傘に入れてあげようと思っていたから。

 

彼のすぐそばにわたしが立ったせいで、カフェの自動ドアが開いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

機械的に店員の声が聞こえ、「あ、気まずい」と思った瞬間に男の人は顔をあげ、表情のない顔で「あ、じゃあ」みたいなことを言った。

 

若い、普通の人だった。

 

顔はあんまり覚えていないけれど、細身で印象に残らない薄い顔をしていた。

 

嬉しそうでもなく、戸惑ってもおらず。「え、じゃあ、まあ、行きますか」みたいなはっきりしない返事とともに傘に入ってきたのだった。

 

その瞬間。

 

慣れない匂いがふわっと傘のなかに広がった。

 

深くて、ビターな匂い。

「珈琲だ、」と思った。

 

きっと先ほどまで飲んでいたのだろう。当時のわたしは、いまよりももっと珈琲に馴染みがなかったので、新鮮な気持ちだった。そして、珈琲の中に混じる、その人の匂い。

 

もしも匂いが目に見えたら、傘のなかに淡くまあるくなって広がっているのだろうな、と思った。咄嗟にといえど、大胆なことをしてしまったのかもしれない。肩に触れるか触れないかの距離で、その人の匂いを嗅ぎながら、急にドキドキしたのを覚えている。

 

ほんの少しの距離だったけれど、ひとつの傘の下で肩を並べて駅まで行った。

 

その間何を話したのか、全く覚えていない。でも、(どういう流れだったのか本当に忘れてしまったのだけれど)Facebookで友達になった。

 

 

彼の話で唯一覚えているのは、たまたま鳥取かどこかから来ていると言っていたこと。友達があと少しで渋谷に到着するのだということ。うなだれていたのではなく、遠くから来たので眠たかったのだということ。

 

Facebookで友達になったあと、数回だけ投稿にコメントをしあったこともある。

 

でもそのコメントがあまりにも、昔から友達だったかのような内容なので、不安になって一度だけ「雨の日のこと、覚えてますか」と聞いた。「覚えてます」と返事があった。

 

でも、彼がある日変わった名前(ハンドルネームかなにか?)に登録名を変えてしまったのだ。それだけでなく、プロフィール写真も変えてしまった。接点の薄いわたしは、あっという間にどれが彼だったのかがわからなくなってしまう。インターネットでの繋がりなんて、所詮そんなものなのだ。

 

今でもおそらくFacebook上では友達なはずなのに、名前がわからない。探しても、見つからない。また、名前も写真も変えてしまったのかもしれない。

 

あの日のことは、たまに思い出すのだけれど、夢だったのではないか?という疑念は今でもある。ひとりきりで抱えている思い出は、あやふやで不確かだ。

 

もう一度、「雨の日のこと、覚えてますか」と聞きたいけれど、もう聞くこともできないだろう。

 

でも、あの珈琲の匂いは、たしかにあそこにあったのだけれど。

 

 

……。

 

恋の話を期待した人には悪いけれど、わたしの思い出はここまで。これ以上でもこれ以下でもない。でも、傘のなかで匂った珈琲と男の人の匂いは、未だに記憶の中に生き続けている。

 

もう二度と会うことのない人の顔をもう一度だけ思い描いて、アールグレイティーを飲んだ。

 

あのとき、季節はいつだっただろう。あの人の名前は、なんだっただろう。

 

一度掴みかけた記憶のはじっこがスルスルと離れていく気配がした。

 

珈琲の匂いも、もうしなかった。

 

 

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